琉球王朝時代の沖縄において、沖縄古来の武術に、中国や日本の武術がミックスされ、後にそれが空手へと昇華されました。
ここでは、当時の沖縄における空手の誕生から、日本本土への広まりを経て、世界的な武道へと発展するまでの歴史について、簡単ではありますが、説明していきます。
「手」から「唐手(トゥーディー)」、「唐手(からて)」から「空手」へ
琉球王朝時代の沖縄では、中国との間で交易が盛んでした。
交易で人々の往来も盛んな中で、中国拳法が沖縄に伝わり、それが、琉球古来の武術「手(ティー)」や日本の武術と融合されて、空手の原形「唐手(トゥーディー)」が出来上がりました。
その歴史的背景には、15~6世紀ごろの琉球王朝において、倭寇の襲撃に悩まされていたことが挙げられます。
その倭寇に対抗するための手段として、唐手は生まれました。
唐手は、首里城を中心とする首里手、那覇を中心とする那覇手、そして泊村を中心とする泊手があり、その3つの流れを中心に発展していきました。
そして、明治に入ってから、現在の空手につながる新たな歴史が始まりました。
「唐手」は「からて」と呼ばれるようになり、糸洲安恒によって「唐手十か条」がまとめられ、これまで秘伝とされてきた唐手が、公開されるようになりました。
その後、沖縄において、学校の体育科の授業に取り入れられるようになり、近代化がなされました。
大正に入り、船越義珍を始めとする唐手の達人たちが本土に渡り、日本本土でも広まりはじめました。
そして戦前にかけて、剛柔流・糸東流・松濤館流・和同流の四大流派が生まれ、競技化へ向けて防具やルールの研究も盛んになってきました。
そのころ「唐手」から「空手」へと、公式に表記が改められることになりました。
般若心経の「空」の概念にちなんで表記を改めたと言われていますが、昭和初期の中国との戦争に突入する時代背景も、少なからず影響があったようです。
「空手」から「カラテ」そして「KARATE」へ
戦後、GHQによる武道禁止令のために活動が停滞したものの、まもなく解除されると、その活動は再び盛り返しを見せ、空手は新たな時代を迎えることになりました。
1950年代に入ると、国内の空手家達は海外に出て、世界中で空手の普及に努めると同時に、駐留アメリカ兵が、日本で空手を学んで帰国した際にアメリカ本国で広めるなどして、空手の国際化が始まりました。
また、空手の競技化の動きも、まずは昭和29年に練武舘の防具付きルールによる、史上初の全国大会を皮切りに、昭和32年には全日本学生空手道連盟の、ノンコンタクトルールによる初の全国大会が行われ、具体化される運びとなりました。
そして、各流派の大同団結への動きも加速し、昭和39年に四大流派および練武会(旧名:練武舘→旧・全日本空手道連盟)を中心とした、全日本空手道連盟(新)が発足しました。
同じく昭和39年、空手界のもう一つの大きな潮流となる組織として、大山倍達率いる極真会館が、前身の大山道場を母体に発足しました。
全日本空手道連盟は、ノンコンタクトルールによる安全性との両立を目指し、一方、極真会館は防具なし、完全ノックアウト勝負のフルコンタクトルールによる肉体の可能性を追求し、ここに空手界の2つの大きな潮流が出来上がりました。
さらには、フルコンタクト制の空手に、捌きや投げ技、寝技、立ち関節も取り入れた団体が誕生したり、防具付き空手においても、強打による一撃を追求した団体が誕生したりするなど、多様化の局面を見せるようになりました。
同時に競技人口も世界的に広がり、流派を問わず海外にも支部が置かれ、国内と海外の間で人材交流も活発になりました。
海外での空手熱が高まるとともに、外国人の強豪選手も生まれ、近年、極真系団体に至っては、ブラジルやロシアからの選手が、日本選手を脅かす勢いにまで成長しています。
まとめ
沖縄で生まれた空手の歴史は、日本、そして世界への拡大の歴史と言っても、過言ではありません。
また空手は、時代とともに柔軟に変化しつつ進化を遂げ、その進化は今もなお、とどまることを知りません。