空手界における、大山倍達の功績について

直接打撃制による空手の競技化を実現した、極真会館の創始者である大山倍達。

そのカリスマ性から、空手のみならず格闘技界にも多大なる影響を及ぼしました。

ここでは、大山倍達が空手界に残した功績について、その歩みとともに解説していきます。

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大山倍達、その武道の歩み

大山倍達は、1923(大正12)年7月に、当時日本統治領であった朝鮮の全羅北道金堤市で生まれました。

その後16歳で軍人を目指すために日本本土に渡り、19歳で松濤館の船越義珍から空手を学び、以後、松濤館流と剛柔流を主に学びました。

そして戦後の1947(昭和22)年、彼が24歳のころ、京都で行われた戦後初の空手道選手権で優勝、さらに1952(昭和27)年にはプロ柔道の遠藤幸吉四段と渡米し、空手のデモンストレーションを行いながら、プロレスラーやプロボクサーと対決しました。

帰国後、彼は牛を素手で倒し、その映像は映画として、1954(昭和29)年に公開されました。

彼は空手以外にも、柔道やボクシング、そして大東流合気柔術の合気柔術とステッキ術も学びました。

空手界に残したその功績とは

大正期に、沖縄から本土に空手が伝わった当初は、型稽古中心で組手試合は行われませんでした。

そのころすでに、剣道や柔道では試合が行われており、空手においても競技化の気運が高まり、それに向けた研究が始まりました。

防具付き空手や寸止め制の研究が進む一方で、素手素足による直接打撃制の研究は、幾たびかの挫折を繰り返してきました。

しかし、大山倍達は多くの武道家との交流を通じて、また、世界各国で空手の指導を行う傍ら、様々な格闘技の研究を行うことによって、直接打撃制の空手を生み出しました。

自宅で開いた大山道場を経て、1964(昭和39)年に、国際空手道連盟極真会館を設立しました。

大山倍達の空手界における功績は、直接打撃制による真剣勝負を実現したばかりでなく、彼の卓越したプロデュース力によって、極真会館をメジャーな組織に押し上げ、直接打撃制の空手を社会的に認知たらしめたことにあります。

極真会館のもとには、優れた人材が集まり、数多くの弟子や選手を輩出してきました。

その優れた弟子たちが独立などして、のちに多くのフルコンタクト系各流派を生み出すきっかけをも作り上げました。

まとめ

空手において直接打撃制を確立し、素手素足による真剣勝負を実現した、大山倍達。

彼が極真会館を立ち上げたことによって、空手界の新たな可能性を切り開いたとともに、今日の格闘技界の隆盛にも貢献していると言っても、過言ではないでしょう。

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