明治以前の沖縄において、日本と中国との挟間の中で、独自の発展を見せた空手。
20世紀に入ってから、海を越えて日本、さらには海外まで広まり、今や世界中で5000万人の競技人口を誇る武道となっております。
ここでは、空手がどのように生まれ、どのようにして世界中に広まったか、その歴史について簡単ではありますが、述べてみたいと思います。
沖縄で育まれた空手とその近代化に至る、その歴史
沖縄空手のルーツですが、一般には琉球王朝時代のころ、沖縄固有の武術「手(ティー)」に、中国武術や日本武術などが融合されてできた、と言われています。
その背景として、15~6世紀ごろ、海洋貿易で栄えていた、当時の琉球王朝において、周辺の海域に倭寇が現れては、周辺の船や沿岸の村を襲撃していました。
それらに対抗するための武器術として、空手は生まれました。
はじめから統一された武術というわけではなく、下記の3つの地域で生まれた流れを中心に発展していきました。
・首里手(しゅりて):首里城を中心とする
・那覇手(なはて):那覇を中心とする
・泊手(とまりて):泊村を中心とする
しかし、それらは当時の沖縄の武士に当たる階級の間で、ひっそりと伝承され続け、後に「唐手(トゥーディー)」とも呼ばれるようになりました。
秘密裏に伝承されてきた理由については、尚真王および薩摩藩の禁武政策の影響と言われていましたが、近年ではその影響について、疑問視する向きも少なくありません。
明治に入り、琉球王国は琉球藩として日本に編入され、士族身分が撤廃されてからは失伝の危機にも見舞われました。
しかし、糸洲安恒によって「唐手十か条」がまとめられ、沖縄において学校の体育科の授業に取り入れられる形で公開され、空手の近代化がなされました。
そのころ「唐手」の呼び名は「トゥーディー」から「からて」と改められました。
海を渡り本土へ、そして世界へ
その後、大正期に船越義珍をはじめとする達人が本土に渡り、空手が本格的に広まることとなりました。
その中には、本部朝基のように、すでに50代にしてロシア人ボクサーを倒した逸話もあって、空手に対する関心が高まりはじめたのでした。
戦前にかけて、四大流派が生まれ、大学の研究会を中心に、安全かつ実戦性を兼ね備えたルールや防具などの研究が盛んに行われて、現在の空手の原型が形作られるようになりました。
そのころ「唐手」から「空手」へと表記が改められることとなりました。
戦後、GHQを通じて武道禁止令が発令されたため、一時期はその活動は停滞することがあったものの、まもなく盛り返しを見せるようになりました。
また、国内の空手家達は海外へと飛び出し、世界を巡って空手の普及に努めました。
競技化への動きも盛んになり、一方は全空連を中心とした寸止めルール、もう一方は極真会館を中心とした直接打撃(フルコンタクト)ルールの双方が発展していきました。
以後、爆発的に競技人口も増え、日本国内にある各流派・団体も海外に支部を置くようになり、現地にて指導が行われている他、海外から空手を習うために、数多くの外国人も、日本を訪れるようになりました。
まとめ
以上、駆け足ではありましたが、空手の歴史について述べさせていただきました。
空手を習っているからには、ただ技術を習うだけでなく、その歴史についても、理解を深める必要があるかと思います。
それによって、ご自身の技や型に、より深みが増すことと思います。
これを機会に、ご自身が習われている流派や道場の、より詳しい歴史についても、学んでみてはいかがでしょうか?